モノの20〜30分で白久磨町に着き、駅の改札を抜けると古民家が軒を連ねた懐かしい景色が眼に飛び込んで来た。そして真っ赤な夕焼けがそれらを染めて何処か懐古主義的な映画のセットの様に見えて嘘臭い。いやこれは嘘だ。過去の記憶のこの街を忌み嫌って俺を棄てた母親の様に俺はこの街を記憶の中から廃棄していた。
夕焼けを見ながらそんな母親を思い出すと涙が止まらず、端から見たらいい歳した代の大人が随分滑稽に見えたに違いない。周りの人目を気にしながら涙を拭いて、俺はこの街の中に足を踏み入れる事を決意した。
暫く歩いていると壁一面青く塗られた木造の一軒が眼に止まった。看板らしき物が出ていない。目立つこの青い壁が看板だと言うのか?これが今時の言うお洒落だと言うのか?一体何の店なのか?いや店なのかどうかも分からない。そんな事を呟きながらこの怪しい建物の入り口を見つけた。そのドアの小さな窓を覗くとカウンターとテーブルが見える。そして聞き覚えのあるジャズの名曲、スターダストがサックスの音色で生々しく聞こえ始めた。その演奏している姿が見えないまま、暫く聞き惚れて、店のドアを押す事すら忘れている。そして遠い記憶、学生時代にプラスバンド部でサックスを吹いていた自分の姿を思い出して何だか懐かしくなった。
「小さな旅立ち」
床屋で待ってる間、暇つぶしに雑誌を開いた。前の職場近辺にある白久磨町(しろくまちょう)の特集だ。幼い頃過ごしたその街に良い思い出はなく、何時の間にかずっと避けてた街だった。しかし今のこの瞬間、もう一度行ってみたい好奇心に駆られた時に丁度調髪の順番が回って来た。
俺「待ってる間、白久磨町の雑誌の記事を見つけたんですがね…。」
長年この店に通ってるが俺から店主に話し掛けた事など髪の注文以外はなかった。随分驚いた様子で少しこわばった店主の顔。それを見て吹き出しそうになった俺に安心したのか店主の顔は直ぐにほころんだ。それは60歳を越えた店主の顔ではなく恋の悩みを聞いてくれる親友の顔の様だ。
俺「あの街、今そんなに凄いんですか?通勤途中の路だったんですけど勤め出してから一度もあの街の駅に降りた事ないんですよ。何せ陰気臭い街ですよね。」
店主「もしかしてあそこの出ですか?」
俺「えぇ、まぁ…。」
店主「実は私も白久磨町の出なんですが若い頃は商店街を中心に随分賑わった街でしたよ。それがバブルが弾けた頃から何時の間にかシャッター通りとか呼ばれ、客が寄りつかなくなって私はあの街を捨ててしまいました。」
俺「白久磨町に住んでたなんて奇遇ですね!私は幼い頃に家庭がもめまして…。雑誌にまで載る程復興してるなんて知らなかった私が取り残された浦島太郎な気持ちですよ。」
店主「随分小洒落た街に変わったとは聞いてますよ。」
俺「ところで、ほらあそこの商店街の駄菓子屋知りません?ガキん頃はよく手鼻をかんでたもんだからあそこのおばちゃんに汚い手で品物を触るなって、手を叩かれて怒鳴られたものです(笑)」
店主「もうどれ位帰ってないんですか?」
俺「20年?いやもっとかな?」
店主「近所なのにね…。もう一度立ち寄ってみては如何です?新鮮な気持ち…いや別世界に来た、竜宮城にでも来た気分になるかも知れませんよ。(笑)」
俺「もう一度ですか…?」
店主「あなたならまだ若いんだから間に合う。」
俺「それってどう言う意味ですか?」
突然店主は険しい表情となりただ黙々と髪を切り始めた。そして調髪が終わると勘定を済ませその気まずさから逃げ出す様に店を後にし、早速白久磨町へと急いだ。
そんな客の後ろ姿をずっと見えなくなるまで見守る店主。
店主「何もかも乗り越えてやり直して欲しいもんだ。お前ならやれるさ!無事に我が家をみつけて幸せにやって行けよ!」
不当解雇と共に失恋?まぁ2ヶ月は働かなくても会社から給料は出るし、その後も雇用保険が出る。しかし転職にかなりの労力は費やしたし応援してくれたヒト達の喜んでくれた顔を思い出したら悲しくなる。
かなり凹んで呑み友を呼んだ。そして何故かそいつの口癖、「本能を鍛える」について聞いてみた。理性は鍛えられようが本能など生まれ持ったもんなのに鍛えようが無いなとずっと不思議に思っていたからだ。
子供の頃は木登りや階段跳び等危険な遊びが好きだった。大怪我をしてこっぴどく親から怒られたもんだ。
理性とは絶えず抑えつけられるもの。本能とは冒険でもあり原始から備わったもの。本能を鍛えるとは理性に邪魔されず、自分の本能を信じる事だとその呑み友から教わった。
この時期に自分の本能を信じて見る。本来俺は何をやりたかったのか社会から弾かれる恐怖に邪魔されず、常識や世間体から邪魔されず本能を鍛える事にしよう。