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 マクド化理論を別の角度から解釈すると、こうも言えます。社会というものは、人間の意思や意図が複雑に絡み合う。したがって、どんな発言も社会システム全体の状況になにがしかの影響を与えざるをえない。普通の物理学のシステムとは全く違うのです。太陽が地球の周りを回っているといくら人間が言っても、物理学のシステムはなんら変わらない。しかし、経済は多くの人が、これから不景気になると思えば、お金を使わないから実際に不景気になる。これが自然科学と社会科学の根本的な違いです。 で、マクド的社会科学者たちは、基本的に社会のシステムを自然科学的に捉える傾向が強い。社会科学を物理学の応用と位置づけるんですね。
例えば沈黙のらせん理論も、実は物理学に説明できる現象です。デフレも、需要と供給のギャップと見れば物理学的に捉えられる。もちろん大津波は完全な物理現象です。このように、社会のシステム全体を物理現象と見て終わらせるのが、『見』の学問です。
一方に『観』の学問がある。沈黙のらせんを破ったのは、『王様は裸だ』という一言であるという事実を考慮の外におかず、そこに社会の本質が宿っていると観て取る。あるいは、デフレの進行を止めるためにどんな政策を打つべきかを考え、大津波に対抗するために強いインフラを強い意思でもってつくりあげる。つまり、システムを一面において物理現象とも捉えつつも、そのシステムが人間の『意思』の力でもってさながら生き物のように展開していくものでもあるというふうに、そこにある命や志というような物理学的には捉えようのないものも含めて大きく、かつ、深く捉える、それが『観』の学問です。 要するに、その根底に全体を見通し、かつ、その背後にある潜在的な命や志を感得しうる志の力、あるいは、人間力のようなものがないと、マクド経済学のように、どんなシステムも自然現象のように扱う学問しかできない、ただ単に小賢しいだけで、薄っぺらい、もやしっ子のような学者ができあがるのです。
      藤井聡